弘仁7年(816年)、弘法大師により高野山開創の時、高野山参詣の要所になる場所に高野山の表玄関として伽藍を創建し、高野山の庶務を司る政所を置き、高野山へ行くための宿坊とされたのが始まりです。
弘法大師の母、玉依御前が我が子の開いた高野山を一目見ようと香川県からやってきて、女人禁制の高野山に登れない為、この慈尊院で余生を暮らされました。
弘法大師は月に9回、母である玉依御前に会う為に高野山から降りてきたことから、この地の地名を九度山と呼ぶようになったと云われています。
玉依御前が入滅された際、弘法大師は母は弥勒菩薩なられたと霊夢を見て、弘法大師自ら弥勒菩薩を作り、母君の霊と共に安置され、弥勒菩薩の別名「慈尊」から慈尊院と呼ぶようになりました。
高野山を含む真言宗の寺院の多くは女人禁制でしたが、慈尊院は女性を受け入れていたため「女人高野」として知られていたようです。
女人高野は他にも
宀一山・室生寺や
天野山・金剛寺、高野山・女人堂などが有名です。