南法華寺の歴史
大宝三年(703年)元興寺の僧、弁基上人がこの山で修業していたところ、愛用の水晶も壺を坂の上の庵に納め感得した観音様のお姿を摸刻してまつったのが始まりだということです。
平安時代には清少納言が「寺は壺阪。笠置。法輪。」と枕草子に書いたほどの名刹で壺阪寺と呼ばれ親しまれてきました。
その後、数度の火災によって焼失しては再興を繰り返したが、南北朝や戦国時代の動乱に巻き込まれ、当時庇護を受けていた越智氏の滅亡と共に壺阪寺も衰退していきました。
豊臣秀吉の弟である秀長の家臣だった本田利久が高取城主となり、本田氏と藩主植村氏の庇護を受け復興していきました。1827年に現在の伽藍が再建されました。
1960年代、インドのハンセン病患者救済事業への支援協力したことから様々な国際交流を展開し、壺阪寺の境内にはまるでインドの寺院のような多くの石彫があります。