葛井寺の歴史
7世紀後半、百済から渡来した葛井氏の氏寺として建立されました。
その後、神亀2年(725年)行基によって創建され、聖武天皇が42歳の時に自身の厄除けを祈願して乾漆千手観音像を作らせ、行基によって開眼法要が営まれたと伝えられています。聖武天皇の勅願寺として古子山 葛井寺の勅号を得たとされています。
平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると五番札所に選ばれました。
南北朝時代には楠木正成の陣を敷かれたことから、たびたび戦火にさらされました。
室町時代には興福寺の末寺として栄え、東西二つの三重塔をもつ伽藍でしたが、明応二年(1493年)に起きた鼻山氏の内紛による兵火によって楼門、中門、三重塔、奥の院を焼失し、本堂と堂塔を残すのみとなりました。