総持寺の歴史
総持寺は今昔物語や源平盛衰記にも紹介されていますが、総持寺にはお寺の創建についての縁起絵巻が残っています。
総持寺の縁起絵巻によると、中納言藤原山蔭の父、高房卿が大宰府に赴任の為に淀川を船で下っていると、漁師が一匹の大亀を捕らえていました。高房卿は「卿は観音様の縁日なのでその亀を私に譲ってください。」と自分の着物と交換し、淀川に逃がしてあげました。
その夜、継母のたくらみで最愛の子である山蔭を河に落とされました。嘆き悲しんだ高房卿は常日頃から信仰している観音様に我が子を助けて欲しいと祈念しました。すると前日助けた大亀が我が子を背に乗せて現れたのです。
観音様の感謝した高房卿は観音像を作って感謝しようと思いました。高房卿は遣唐使に唐で香木を買ってくるよう依頼しました。しかし、唐で香木を購入した遣唐使は日本への持ち出しを禁止されたので、香木に銘を書き海に流しました。
月日は流れ高房卿は亡くなり、息子の山蔭が大宰府に赴任しました。ある日砂浜で銘の書かれた香木を発見します。驚きと歓喜に包まれ、高房卿の遺志を継いで観音像を造る決心をします。
任期を終えて京に戻った山蔭卿は仏師を探すために長谷寺に籠り祈願しました。ある朝、観音様のお告げにより仏師に巡り合いました。山蔭卿は京の屋敷に来るよう仏師に告げ長谷寺を後にします。
山蔭卿の屋敷を訪ねた仏師は、怪しむ家来たちの前で見事な十一面観音像を彫り皆を驚嘆させました。その後、香木を与えられた仏師は「仏様を彫る千日の間、誰も仏舎に入れない事。また山蔭自身で私の食事を作ること。」と言いました。
仏師が観音像を彫り始めて千日目の朝「長谷寺の観音様はどちらに」という声が聞こえてきました。すると仏舎から「行基菩薩よ、今帰る。」と聞こえ仏師が空に飛び立ったのです。
山蔭卿が仏舎に駆けつけると千手観音様が亀に座った姿の像がお奉りされていました。
寛平2年、総持寺の伽藍が完成し山蔭卿の千手菩薩像が安置されました。