勝尾寺の歴史
勝尾寺縁起によると神亀4年(727年)義仲と義算という双子の僧が紫雲がかかった山を見つけ、修業の為に草庵を建てました。
ある日二人は、石の上で座禅を組む一人の人物に出会いました。その人物は光仁天皇の皇子であり、仏門に入るために都を抜け出しこの山にやってきたと言いました。
双子は皇子との出会いに運命的な物を感じ、皇子を草庵に招きました。皇子は開成と名乗るようになり、三人での修業が始まりました。三人は仏道の妨げになる悪い行いを防ぐために、大般若経600巻の写経の誓いを立てました。すると突然雨が降り出し、雷が落ちました。三人は写経に必要な紙を作るため、雷の落ちた場所に楮を植え、大般若経の埋納場所に定めました。
しかし、大般若経の書写を始める直前、義仲と義算の双子は往生を遂げました。一人残った開成は改めて写経の決意を固めました。紙は用意できましたが、金字で書くための金塊と神水がありません。開成はそれらが手に入るよう天に祈りました。
七日後の夜、夢の中で八幡大菩薩が現れ「写経の為の黄金を授けよう。」とお告げを受け、目覚めると手許に金塊が置かれていました。翌日の夢には諏訪大明神が現れ「白鷺池の水を汲んできた。」とお告げを受け、目が覚めると器に清らかな水が満ちていました。
開成が写経を始めると、今度は蔵王権現が現れ「そなたの行いを守ってあげよう。」とお告げを受けました。開成は三神を祀る社を建てました。これが現在の鎮守堂だそうです。
開成の取り組みを耳にした光仁天皇は、写経の為の道場(如法堂)の建立を支援しました。
如法堂で写経を続けていたある日、鬼神が紙を捨てる夢を見ました。目が覚めると残っているはずの紙が無くなっていました。すると二羽のカラスが飛来し荒神を鎮める方法を書いた文書を落としていきました。開成がそれに従い荒神を祀ったところ、無くなった紙が戻ってきたそうです。この荒神は日本最初の荒神と言われ、仏・法・僧の三宝を守護する三宝荒神として崇められ、人々の悩みや病気を払う「祓荒神」として広く信仰を集めました。
大般若経の書写は5年の歳月をかけ宝神6年(775年)に完成しました。開成は落雷のあった場所に六角堂を建て、仏像や仏具と一緒に大般若経を奉納しました。弥勒菩薩の出現を待つことにちなんで弥勒寺と命名されました。
宝亀9年(778年)興日という修行僧がやってきて「弥勒寺の御本尊を作るために白檀を寄付したい。」と申し出ました。開成は大変喜び白檀を受け取りました。すると今度は、妙観という修行僧がやってきて「御本尊の観音像を彫りたい。」と申し出たので、白檀を渡しました。
妙観は18人の同伴者と千手観音像を彫り始め、30日かけて彫り終えました。完成した時、妙観は低頭合掌したまま亡くなっていたそうです。
天応元年(781年)、御本尊の千手観世音像をご覧になりながら開成は往生しました。それ以後、歴代の住職は開成の教えを守り、弥勒寺の興隆に尽くしました。
その後、六代目の住職だった行巡の時に清和天皇が病気を患い、病気平癒の祈祷を命じる使者が遣わされました。行巡は特別な修業中であることを理由に断りました。行巡を説得するために再度使者を派遣し、使者が「あなたの修行場は天皇の土地でもある。何故、勅命に従わないのか。」と告げました。すると行巡は地に杖を立て、その杖の上に敷物を敷き座りました。使者は「杖の先端は地に付いているではないか。」と迫ります。すると行巡はふわりと空中に浮かびあがりました。それに驚いた使者は慌てて都に戻り、天皇に報告しました。
その報告を聞いた清和天皇は、改めて使者を送り「都に来なくても良いので、修業の地から祈祷してくれまいか。」と行巡に伝えました。すると行巡は袈裟と数珠を都に飛ばしました。清和天皇は枕元に袈裟と数珠があることに気づき拝んでみると、たちまち病気が治ったそうです。
感銘を受けた清和天皇は「そなたの力は王である私の力にも勝るものである。ゆえに勝王寺の寺号を授けよう。」と行巡に伝えました。しかし行巡は「王」の字を使うことをはばかり、代わりに「尾」の字に差し替え、寺号を「勝尾寺(かつおうじ)」にしたそうです。