三井寺の歴史
三井寺は正式名称を長等山・園城寺と言います。
天智6年(667年)に天智天皇により飛鳥から近江に遷都され、近江大津京が開かれました。
天武1年(672年)前年の天智天皇の御崩御の後、大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(天武天皇)の皇位継承をめぐり壬申の乱が勃発しました。
壬申の乱に敗れた大友皇子の霊を弔う為に、与多王により田園城邑を寄進して寺院を建てました。天武天皇から「園城」という勅額を賜ったことが園城寺の始まりと言われています。
勝利をおさめた天武天皇は再び飛鳥に遷都したので、近江大津京はわずか5年で廃都になりました。
貞観年間になって智証大師円珍が園城寺を天台宗の別院として中興されました。
しかし円珍の死後、比叡山延暦寺との対立で比叡山宗徒によって50回もの焼き討ちにあい、源平の争乱や南北朝の争乱など幾多の焼き討ちにあいました。
豊臣秀吉によって寺領を没収され廃寺同然になった事もありましたが、どんな困難も乗り越えて復活していることから「不死鳥の寺」と呼ばれるようになりました。
三井寺と呼ばれるようになったのは天智天皇、天武天皇、持統天皇の誕生の時に三井寺の霊泉を産湯に使ったことから「御井の寺」と呼ばれるようになり、三井寺と呼ばれるようになったと云われています。