粉河寺の歴史
粉河寺は奈良時代末の宝亀元年(770年)紀伊國に住む猟師・大伴孔子古が夜に鹿を狙っていると光明輝く地を発見し、その地に庵を立てました。
後日、一晩泊めてもらうことになった童男行者は恩返しに孔子古の願いであった仏像を安置する為に七日七晩かけて等身の千手観音像を彫り安置したそうです。
鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十の坊、東西南北4kmの広大な境内などありましたが、天正十三年(1585)豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失しました。
その後、紀州徳川家の庇護と信者の寄進により江戸時代中期から後期に現存の諸堂が完成しました。