准胝堂(醍醐寺)の歴史
貞観16年(874年)、聖宝理源大師が貞館寺から東の方を見ていると、五色の雲がたなびいているのが見え、その五色の雲に誘われ山頂に着き、谷間を見ると一人の老人が湧き水を飲んでいるのが見えました。大師は老人にこの地に寺院を建立したいと声をかけました。老人は「ここは諸仏、諸菩薩の雲集する地で、私は地主の横尾大明神である。この地を与え、末永く守護しよう。」と言い残し姿を消したそうです。この老人が飲んでいた水は現在も枯れることなく湧き続け醍醐水と呼ばれています。
その後、大師は准胝・如意輪の両観世音菩薩を彫られ上醍醐に標しました。以来、醍醐天皇、穏子皇后の帰依で上醍醐に薬師堂を建立し薬師三尊を安置し、五大堂を建てて五大明王を奉られました。
さらに下醍醐に釈迦堂を建立し山上、山下に渡る大きな寺院計画が作られました。朱雀天皇、村上天皇に受け継がれ法華三味堂、五重大塔が建立されました。
平安時代末期には白河上皇の帰依と共に多くの堂宇が建立され、鎌倉時代になると真言宗事相の根本道場になりました。
平安時代から「花の醍醐」と呼ばれるほどの桜の名所で、慶長3年(1598年)の春、豊臣秀吉によって1300人が参加した「醍醐の花見」が行われたことは有名です。
平成6年(1994年)にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。
残念ながら准胝堂は平成20年(2008年)8月24日落雷により焼失しました。