金剛峯寺の歴史
弘仁7年(816年)高野山を賜った弘法大師は、実恵、円朝なお東寺にいた弟子に命じて草堂を建てさせました。819年に弘法大師が高野山に結界を張り伽藍の建立に取り掛かりましたが、朝廷からの援助を受けずに私寺建立を目指したこと、交通不便な山奥であった事、弘法大師が多忙であったため工事は進みませんでした。
弘法大師が在世中に完成した堂宇はごくわずかでした。
承和2年(835年)弘法大師が高野山奥之院に入定され、高野山は定額寺になり、弟子であり甥にあたる真然が887年頃に根本大塔などの伽藍を整備しました。
その後、東寺と弘法大師が唐から持ち帰った「三十帖冊子」の所有権で紛争し、荒廃しました。東寺の観賢により和解し「三十帖冊子」は東寺の所有に、高野山は東寺の末寺になりました。
921年、観賢の上奏により天皇から「弘法大師」の号が贈られ、次第に高野山は復興していきます。
正歴5年(994年)落雷による火災で殆どの伽藍を焼失、再び荒廃していきます。
長和5年(1016年)頃から祈親上人が再興に着手し、宗派を超えた様々な勧進僧(後の高野聖)が協力しました。
弘法大師信仰が皇族にも広がり、白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなどで、信仰を集め寺領の増加、堂塔再建、愛飲の建立など復興していきます。
高野山の復興は進みましたが、東寺の末寺として扱われ、社会的地位は低いままでした。保延6年(1140年)金剛峯寺の座主だった覚鑁と保守系の僧とが衝突、覚鑁は高野山を下山し根来寺へ移り新義真言宗を成立させていきます。
その後、様々な内紛がありましたが、永正18年(1521年)大火により金堂以下伽藍300余り、僧坊まど3900余りが焼失し壊滅状態になりました。有力大名と師壇関係を結び、奥之院への納骨、納髪、石塔建設が盛んになり、武士の間で高野山信仰が広まり、戦国大名が寄進した子院が数多く作られました。
ですが、戦国時代には高野山の寺領は17万石、3万の僧兵を有す巨大勢力であったため織田信長の標的になり高野攻めが行われました。しかしほどなく、本能寺の変で信長が倒れ、難を逃れたかと思われましたが、豊臣秀吉により再度標的にされ降伏勧告されます。しかし、武家出身の僧、木食応其が仲介者となり
石高は減らされたものの存続することができました。のちに秀吉は応其を強く信頼し帰依するようになり、高野山を庇護するようになりました。
文禄3年(1594年)徳川家が蓮華院に大徳院という称号を与えたことで、譜代大名もこれに倣い、霊屋や墓碑、供養塔を建立するようになりました。官営10年(1633年)徳川家零台の建設を開始10年の歳月をかけて完成しました。
明治になると神仏判然霊が発布され、仏教界は危機的状況になりました。明治2年には秀吉が建立した青厳寺と興山寺が合併し金剛峯寺と改められました。それまでは高野山全体を差す寺号でしたが、この時から高野山真言宗の管長が住む総本山寺院を金剛峯寺と呼ぶことになりました。
大正10年(1921年)には霊宝館が開館、大正15年(1926年)には高野山大学が開設されました。
昭和32年(1957年)財団法人・高野山文化財保存会が設立され、平成16年(2004年)ユネスコ世界遺産に登録。
平成27年(2015年)高野山開創1200年になりました。