華厳寺の歴史
延暦17年(798年)奥州会津出身の大口大領は十一面観音の尊像を建立したいと強く願っていて、奥州の文殊堂に籠り霊木が得られるように誓願を立て、七日間の苦行を行い、七日目の朝に文殊大士のお告げで霊木を手に入れることができました。大領は霊木を持って都に上り、尊像を完成させました。
京の都から奥州へ観音像を運んでいこうとすると、観音像は近くにあった藤の蔓を木って杖にし、笠をかぶり、草鞋を履いて自ら歩きだしました。途中、美濃国赤坂に着いた時、観音像は立ち止まり「奥州には行かない。ここから北に五里行ったところに、結縁の地がある。そこの地で苦しんでいる人々を救うことにする。」と告げられました。
その後、谷汲山に着いた時、観音像は歩みを止め、一歩も動かなくなりました。
大領は結縁の場所だろうと思い、この地に住む豊然上人と山谷を開き、堂宇を建てて観音像を安置しました。
この話を聞いた醍醐天皇はこの地の谷から湧き出る油にちなんで「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜されました。
天慶7年(944年)朱雀天皇により鎮護国家の勅願寺に定めました。